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うおかねの歴史

◆嘉永弐年(1849)に「肴屋兼吉」として開業。

◆嘉永四年(1851)現在の商工会議所入会。

◆明治元年(1868)徳川慶喜公駿府入りの際に、同行した家臣の内、二等勤番 畠山徳三郎が「お泊りさん」として「肴屋兼吉」宅に滞在とある。(明治弐年の御入国御人数町宿帳による。)

◆年号不明・・・屋号を宇越兼に改名。

◆年号不明・・・四代目の高木兼治が主計長として巡洋艦「やくも」に配属中、高松宮様が「やくも」に乗艦の際に、御給仕をしていた。

◆昭和20年6月19日の「静岡空襲」にて家屋を全焼。

◆戦後(年号不明)屋号を 魚兼 に改名。

◆平成5年11月に店舗新築の際に屋号を宇越兼に改名。

 

※その他は只今、調査中。

※当店にまつわる歴史やエピソードを御存知の方 御一報下さい。

六代目兼吉談


「うおかね」創業は嘉永弐年(1849)12代将軍徳川家慶公の時代。

初代は天保元祖産まれの五男坊です。
本家を継いだのか分家で「うおかね」を立ち上げたのかが不明なのですが本家は尾張徳川家、紀州徳川家と縁があったそうです(宮内庁侍従職の親戚筋談)

分家が濃厚な理由としては菩提寺の墓は2代目が建立し過去帳には初代からの記載しか無いので初代の先祖の墓は判らないのです。

菩提寺は常盤町の常光寺。
常光寺は徳川慶喜公と共に駿府入りした江戸町火消しの新門辰五郎が滞在した寺。
そして慶喜公の家臣も「お泊まりさん」
として当家にも滞在していた。
新門辰五郎が設立した芝居小屋「玉川座」。
後に「若竹座」となり「若竹座大塚家」の娘さんが当家2代目に嫁入りしている。
実に興味深い御縁である。

慶喜公も自転車を好み良く乗っていたと言われてますが紺屋町の代官屋敷跡から西草深町の徳川邸の間にある浅間神社門前の当家を利用されてたとの言い伝えもあります。
しかし、「静岡大火」により消失した当家には証となるものが残っておらず推測の域を出ないが明治時代の写真では浅間通りには茶店などが写っていて門前町として栄えていた事が判るし、料理屋の数、先に述べた御縁からすればあながち嘘とは言えないのでは…

慶喜公の縁と言えば渋沢栄一氏。
渋沢栄一氏は当家初代より10歳若く、当家創業時は僅か9歳…
静岡で商法会所を設立したのはそれから20年後の事。

慶喜公絡みの御縁や明治に納税記録、選挙権を有していた事からもそれなりの財もあったんでしょうから渋沢栄一氏との御縁もあったかも知れませんね。

それなりの財の根拠は創業から5年後の安政元年に「安政の大地震」があり、その年に長女が産まれ次男、三男、四男と産まれてるし、2代目は先妻と後妻の間に12人の子が居る…
それなりに金無きゃ無理っしょ(笑)
戦争で全て失ってますが…。

先に述べた用に証が無い事、初代より前が判らない事、残念ですが…

徳川慶喜公、新門辰五郎、渋沢栄一、清水の次郎長(実家と縁があるとの話しも…)の資料に何か見つかればと願いながら日々アンテナを張っています(笑)

本当か?間違いか?何か手掛かりお持ちの方はご一報下さい。

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